積極的に恥をかく

   どうも今月に始まり、年末まで多忙な日々が続く予感がしだした。かの忙殺の魔物は既に肩に手を置いた。重い瞼を持ち上げながら課題解決に深夜まで取り組む。

 

翌日は朝からなにをするべきか、マストはなにで、時間があればこれ、もし全て終わったらこれをやる。といったことを前日の夜にする。

まるで高校時代のように、翌日の自分をつねに追い込む。

 

     今月と、9月10月の学会のために、データをまとめつつ、実験を続けて、日頃の講義の課題をやり、週末はなるたけ意識的に休む。論文を書かねばならないし、後輩の指導もせねばならない

学生がこうも忙しいものか!

 

 

     アカデミアに残る決断をしてから、数週が経った。一般企業に比べると、アカデミアは、10倍忙しい分、ストレスが1/10になるとボスから言われていた。なんとなくそれが僕にもわかってきた気がする。

 

 

     9月の高分子討論会は、英語口頭発表になった。TOIEC500点の僕が英語発表とは笑える。つーか笑われるだろう。でも僕のことだからきっと努力する、でもまあ結果笑われる。

笑われるのが大事なのだ。昔から何度も人前に出ては多大に恥をかいてきた。恥をかいて、笑われて、そしてようやく人前に立つことに抵抗がなくなった。

 

   思うに、人前で恥をかく人を笑う人間は、二種類に分けられると思う。父性で笑うものと、呆れて笑うもの。

 

前者はむしろ結構で、その方とは仲良くさせてほしい。

後者がさらに分けられて、デキル人間とデキナイ人間だ。

デキル人間に呆れられるのは仕方がない、努力不足だったなと自分を奮わせる。

 

デキナイのに呆れて笑う人間、これが世の中には大変多い。「俺ならデキル」と勘違いして、その実ヒトを笑うことで安心している愚者である。最も社会に溢れる人種でありこの世が濁世となる主因とさえ言える。そのような人に笑われてもなんら痛くも痒くも無いと気づく。

 

そう思うと、人前で恥をかき、人に笑われるとき、 笑う人のほとんどは自分より愚かな民なので、むしろ心の中では笑いかえしてやるのである。

 

残る一握りの賢者に対して自分の存在を知らしめたことにまた満足する。

 

そうして、帰ってから反省しつつまた次に向けて努力する。これが僕が人前に立つ時に心がける心理プロセスである。

 

こう考えれば人前で恥をかくことは、とにかく自分をより尚くするために一等よい事なのだ。

 

男として、頑として恥をかかねばならない。