深層心理に在する自尊心が、大人になった僕たちを支配する?

 

 

5カ月ぶりの更新

世界は、このブログの前回の更新に時には全く言葉も聞かなかったウイルスによってパンデミックに直面し、混沌とした新年度を迎えている。
COVID-19(コロナウイルス=CoV)2019年流行ー新型コロナウイルス感染症によって、世界各地でパンデミックが起こっている。これは数年前に流行したSARSをはるかに凌ぐ勢いで日本にも流入した。
はじめ、発生源である中国が甚大な被害を被り、その後世界各地に飛び火。スペイン、イタリアは医療環境の問題か国民性か、爆発的に感染者・死者が増加。今では(報告されている限り)中国の被害を優に超えてしまっている。世界各地で緊急事態が宣言され、現在では米国が世界で最も被害者の多い国になった。

米国の被害の多さは、持ち前の米国的自由主義の弊害ともいえるものだろう。莫大な医療費と貧困層の多さは、米国と感染症の絶望的な相性の悪さを露呈した。大統領のトランプにとって最も興味もない南部の有色貧困層が最大の被害者である点も、米国が大々的に対策に乗り出せ(さ)ない理由なのかもしれない。かつて前大統領バラク・オバマが打ち出した、日本など外国の医療保険制度を模倣した[オバマケア]が今生きていれば、少しは状況も変わったのかもしれないが、、、、

こんな混沌とした様相の中、日本も『新自由主義』と『日本的世間観』と感染症の相性の悪さも露呈した。必要なところに財を集中し、将来性確実性のない所は切り捨てるという選択と集中を続けてきた日本は、パンデミックの対策を怠りさまざまな分野(特に教育・福祉面)に甚大な被害が出ている。日本人の[お上の一言に従う能力]の高さによって被害は相当程度抑えられているが、それゆえに今回の政治的教訓が十分に得られているのか不安もある。

選択と集中という新自由主義的手法は、このようなイレギュラーな災害に対応するのに向いていない。当然、予想ができないからである。起こるかわからない災害に対策することは新自由主義の中では無駄だからである。 かの大地震の時も時の政権は『想定外の事態』と発言し物議を読んだが、当然それが新自由主義の考え方なのだから仕方ない。


 

そんな中、僕の身の回りで面白いほど個人の人間性が垣間見えるイベントが起こっている。自分とは異なるような人の性格や趣向が見えるイベントは面白い。

僕の友人のなかには『他人と違うことをやってやりたい』という意思が強いひとが結構いる。それは、僕がそう言ったタイプの人間が好きだからという事が理由としてあるのかもしれない。裏を返せば、僕は全くそういうタイプではないのである。僕自身が何かをかっこいい・面白いと思えたなら、たとえそれがミーハーなものでもニッチなものでも好きなものは好きだし、逆もまた然りという事になる。他人と違うかどうかはどうでもいいことなのだ。

しかし、僕の周りに一定数いた『他人と違うことをやってやりたい』タイプの人たちは、そうではないように見える。そういう人たちは自分の行動規範のかなり上位の部分に、他人と同じか否かという検討が入っている印象である。

さらに、僕の勝手な印象だが、そういうタイプの方々は明らかに身勝手な行動を、「自分は他人と違う」という考えのもとに選択している気がする。大学を中退したり、金を破滅的に浪費したり、、と。
そして僕の最近の私見としては、そういうタイプの人は最終的に皮肉なことに大衆に迎合した活動に終始する。ということである。


ある知人は、大学を中退し映像制作者として活動していた。僕の眼には、彼は言い訳が上手い人のように見えていた。好きなことを理想的な形で続ける難しさから目を背け、ありもしない虚構の未来に向かってゆっくりと降下しているように見えていた。ある程度の金があれば、ガムシャラに好きなことを続けることはできるかもしれない。ガムシャラでも続けることもすごく大変だし、もしかしたら王道を行くより遥かに苦労する。その苦労が、悲しくも彼自身を安心させてしまう。だが実際のところ、苦労が必ずしも人間を前に進めるとは限らないのである。”他人とは違う”彼が盲目に精進し、行き着いた先は、時流に乗った大衆受けするものだったようだ。

映像制作プロデューサを自称する彼は、最近某有名俳優がネットに投稿し流行した動画を元に数百人の一般の協力を募った心温まる動画を公開した。動画を見ればどれほど労力のかかったことかが分かるほど、力作であった。 当人の持ち前の行動力とコミュニケーション能力の底力を感じさせるものであった。その苦労も報われ、その動画が某有名俳優の目にも届き、ネット上では一定程度の反響が得られていた。 当人も満足気だし、まるで天下を取ったような振る舞いさえしている。(もともと何かを達成すると気が大きくなり、失敗するとやけに小さくなる性格であった。)

しかし僕からすれば、この様子は結構残念であった。『他人と違うことをやってやりたい』から、王道を捨ててその道に至ったんじゃないか? ネットで流行っている流れにのっかって、ネット上でいい反響が得られて満足なのか? そんな一過性のオナニー活動で留飲を下げることくらい、その辺の大学生でもできることなのに、、、。

映像作家としての製作した過去の作品より今回の作品が遥かに反響があったという事は、自分の芸術的感性や創作力が、大衆の流行(自分以外の創作物)に下回っている事を示しているではないか。



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結局のところ、『他人と違うことをやってやりたい』という感情が行動の動機になるタイプの人は、オリジナリティの形成の仕方に何かしらの欠陥があるように思える。
自分の考えや発想、想像力に魅力的なオリジナリティがあるなら、好きに活動することが必然的に「他人と違う事」になる。「他人と違う事」をやりたい人は、裏を返せば【自分に自信がない】のではないだろうか。

人間は他人とは違うということは当たり前の事であり、生まれたときから達成されているはずである。『他人と違うことをやってやりたい』という発想の根底は、おそらく『他人にできないような分野で活躍したい』という事のはずだ。 この『活躍したい』という部分がミソであり、いくら他人と違う分野にいようが活躍できなければこういった人たちの自尊心は右肩下がりに降下していってしまうのだ。

 

例えば大学生が(『他人と違うことをやってやりたい』という動機で)学校をやめて俳優になったとする。そうすればその人の周りはほとんど俳優だらけになってしまう。自分が他人と違うのは大学を辞める瞬間がピークであり、引っ越した先の世界では当然自分もマジョリティの一員なのである。

人間どこに行ってもマジョリティを抜け出すことはできない。(自宅に引きこもっている場合はそうではないが)

その場合、なにが自分を満足させてやれるのか。この時、結局根底にあった『活躍したい』というような発想に至る。あるいは『注目されたい』『すごい存在でありたい』なのかもしれない。その目標は、どの領域にいようと王道の努力を積まなければ達成できないはずだ。何かになるためには、相応の能力が求められる。能力はどこかに理想郷に行けば簡単に身につくものではないはずだ。 最終的に求められることは、大学から逃げ出したその人がもっとも嫌いなはずの王道の努力


重要なのは、分野人口の少ない世界に行くことを否定しているわけではない。ということだ。しかし、大学生の多くは、こういった分野人口の少ない、ある意味ギャンブル性の高い芸術分野に行く人が多いから、それを例にとっただけである。
本当に好きなことを見つけたから、その世界に行くという事なら、何も後ろめたいことはない。


.....

しかし僕はどうだろうか。大学に入学し、普通の運動サークルと文化部に所属し、成績は下の中。大学院に進学し、修士2年。これは「他人と同じ」「王道」なのか?
そんなことはない。大学院生になった時点で、日本の中でも世界の中でも十分マイノリティだ。そして僕はいま博士課程に進学しようとしている。ますますマイノリティだ。27まで学生を続けること、奨学金という名の借金を負いながら9年間大学に通う事。こんなマイノリティなかなかない。

王道の行き着く先は圧倒的邪道ではないか。



落としどころ見失ったし、書くの疲れたので今日はここまで
ブログってどうやって書いてたか忘れて

しまったなあ~