2019. 08/23. 01:30

爪を切っていて、ふと、昔のことを思い出した。人に爪を磨かれている記憶がなぜか浮かび、なんとも言えぬ気持ちになった。その人は、僕の爪の根元まで、痛いくらいによく磨き、ピカピカになるのを喜んだ。
僕はそれが痛くて、すこし痛がる素振りを見せたが、しかし手を握られ、じっと爪を磨かれるというただそのことがなんとなく好きでいた。
あの時ぼくはたしかに、幸せを感じていたことを思い出した。強く、恐ろしく、陰々とした記憶に塗りつぶされ、忘れていた記憶であった。
思い出せたことが、すこし嬉しかった。

 

 


なぜ、あの時間が幸福だったのか。
たぶん、強い圧迫感や緊張、責任感に押しつぶされ、孤独を感じ、家族にも友達にも心を開きかたを忘れていたときに、その人が現れたからなのかもしれない。
正直よく覚えてない。
勝手なことを言うなら、人に手を握られるだけの時間があれば、ただそれだけで相手が誰でも幸せだったのかもしれない。
皮肉にもあの破壊的な性格が、きっかけとしてそのイベントに辿り着かせたのだろうか


孤独であったのだろう。ぼくは
そして、いま僕は、またその孤独に近づいている。


ひとは何かに没頭すると、孤独になっていく。それは当然のことで、没頭するということは即ち自分の世界に潜るということだ。潜れば潜るほど周りには誰もいなくなっていくからだ。それでいて没頭することは本当に楽しく、人生の至上の楽しみであろうとさえ思う。しかし、没頭には孤独が必ずつきまとうのだ。
ふと見回すと自分の周りには誰もおらず、寂寥という匂いが立ち込める荒野に ぽつん と立っている気分になる…


この孤独に耐えながら、あるいは目を背けながら、没頭を越えた先の至上の幸福に辿り着き続ける生き方を選ぶか。或いは孤独を嫌い、ひとと共感を共にすることで安寧を得続ける世界にいくか。
きっと僕には前者が向いている。


高校時代、独善的で、身勝手で、後悔だらけだったが、それでも胸を張って幸せだったと言える3(4)年間だった。辛かったのは、没頭できる組織に入る前の数ヶ月。そして引退した後の虚無感だけだ。
対して、学部の三年間、没頭できるものが見つからず、内心では鬱々とした生活をした。高校時代と比べれば、友達といえる友達は少なかったかもしれないが、なんと多くの人間と接したことか。人を家に呼び、人の家に行き、朝まで楽しくもないゲームをし、笑いあった。たしかに幸福だった。しかし無我夢中の没頭はなかった。

 


いま、僕は没頭に潜っている。たまに孤独を感じている。
しかもそれだけでない。皆が卒業し、社会に出て、本当に好きなことではないことを仕事にしている人もいる。没頭とは無縁の世界に、皆が羽ばたいていく。物理的に人と離れていく。


最近、心から愛したラーメン屋が閉店ことになった。
幼少期、家族で通った中華料理屋も、すこし前に閉店した。
実家では家族の形がすこし変わり、すこしずつすこしずつ、故郷の姿が変わっていく。
帰る場所が、朧げになっていく。


大人になるってそういうことなのかもしれない。今後、幾度となく来る悲しい別れに、どう向き合っていけるか。それが人生なのかもしれない。


0から100までのスゴロクを一歩一歩歩いていくのが人生なら、進めば進むほど、ふりだしは遠く見えなくなっていくのは当然で、今まさに幼少を過ごした故郷に霞がかかってくる時期なのだ。
過去に目を凝らし続けることも出来るだろうが、時間は当然巻き戻せるものではない。
前を向かなければならない。

 


人がいなくなった部屋を見て、
こんなに広かっただろうか
なんていう歌謡曲があるが、今日は部屋を見回して、狭くなった気がした。
懐かしい記憶は美化される。夜に大勢人を呼んで、ぎゅうぎゅうになって酒を飲んで、あの時、なんだかんだ楽しかったんだ。
飲む場所がなくて仕方なく俺の家になだれ込んできたヤツらと 早く帰らないかなぁ と思いながら酒を飲んだ日々も、大喧嘩してなりふり構わず怒声を上げた日も、懐かしく感じる。
もうこの部屋は、スゴロクでいえば、今いるマスの直前の数マスになっていて、振り向けばすぐゴロゴロと想い出が転がっているような、立派な僕のもう1つの故郷になってきている気がした。


爪切っただけで疲れた。